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zoom RSS yoga大災害-地球の危機

<<   作成日時 : 2011/03/29 15:11   >>

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大災害-地球の危機 2011年3月

 私たちは、全ての日本人の皆さんと彼らがたった今直面している困難に対して心から気遣いを感じています。世界中のジヴァムクティ・ヨーガの生徒達は、私に対して、自分たちはクラスを日本の人達に捧げいるところで、そして祈りを送ることで十分なのか尋ねてきました。最初、私は日本のジヴァムクティ・ヨーガの生徒達からの求めに、彼らへ心を込めたメッセージで応えるつもりでした。でも、私は同時に考えていました。この地震、津波、そして直後の原子力発電所の被害は今や世界中の人々に関わることであり、そしてこれらの出来事は日本以外の多くの場所(私たちは小さく、そして互いにつながりあっている世界的共同体なのです。)でも将来起こりうることだということです。私たちの多くが日本やニューヨーク市のような島々に暮らしていて、同時にひとりとして”孤島”ではいられないのです。そのため、私は自分のメッセージをもっと広く世界全体に当てはまるものにすべきだと感じました。

 祈りの効果について言えば、もちろん祈りは常に良いものです。そしてできるなら、寄付やボランティアも役に立つでしょう。思い出して欲しいのは、私たちは、ヨガ練習者として全ての存在がひとつであることを悟るために努力を重ねていると言うことです。日本にいる生きとし生けるもの達、同じく大地そのものが直面している困難は、”私たちの”困難でもあるのです。そして私たちは共感共苦をもって彼らに応じなくてはなりません。

 でも同時に、この出来事を、すでに何が、一体なぜ起きていて、どうすれば未来の苦痛を避けられるのかを私達は共同体として理解する為に熟視する機会として受け入れることもできます。祈りや他の壊滅的な出来事に対する直接的な対応は役に立つものですが、それらはまた、私達自身の責任を拒み、本当の問題を回避する手段ともなりますが、それはなんの役にも立ちません。今は人間たちが自分達の生き方を問いかける時期で、目の前の経済的な利益の為に自然の摂理を無視する権利があるかのように弁護する事はやめるべきです。私達の多くが、自然の放縦な方法に調和しない生き方に慣れてしまっています。私達は、近い、または遠い未来に、どの様に地球上の生命たち(全ての動物たち、植物、土、水や空気)の本質的な質に影響を与えるかは熟慮せずに行動をしています。例えば、ショッピングセンターや、滑走路や住宅開発の為に森林を壊し、命に危険を及ぼす建築材を使用し、危険である事を知りながら原発を作り、水を汚染させる事を知っておきながら石油やガスを産出し、数多くの動物たちを傷つけ、殺し、川や湖や海を、有害な廃棄物を捨てる場所として利用しています。皆さんは毎年、世界中で一兆枚のビニール袋消費されており、数億枚を生産する為に数百万バレルものの原油が必要とされ、それは結局、海の生物達を殺したり害を与えているという事をご存知でしたか?

 地球に対抗するかのような行為を繰り返しておきながら、地震や洪水が起きると立て直す勇気をくださいと神に懇願し、できるだけ早期にこれまでどうり店やビジネスを再開したいと望みますが、それで私たちは本当の意味で自分の生活を見直したことになるのでしょうか?収拾がつかなくなってから、全能の神に助けに来てくれと祈るなんて哀れです。われわれの暮らしを守ってくださいと神に懇願し、地震や津波と戦う様子は、まるで地球や海が私たちの敵で、罪のない被害者たちを手ひどく打ちのめしてるかのようで、そこには深刻なレベルでの「自然」との隔離が見られます。地球と戦う強さを与え給えと神に祈っていては私たちの立場を全体像で見ることはできません。救い主が助けに来てくれるとすれば、それは地球にとっての友(戦う相手=敵ではなく)であるべきではないですか?われわれ人間は確かに地球にとってよい友(味方)ではなかったのです。まるで地球が我々のものであるかのように暮らしてきたのです。地球について語るとき、その資源さえも我々にとって利用可能であるかという意味で語るのです。地球とともに共生するにはどうすればよいかを学ぼうとする努力さえしてこなかったのです。逆に我々は母なる地球に対して過去1万年またはそれ以上の戦争状態を仕掛けてきたのです。

 自然災害が今日世界で起きているのも母なる地球にとっては報復のようなものです。地球というものは人間に無関心で、私たちがこの地球を犯し、悪用し、干上がるまで搾り取ろうとするのを黙って許し続けるものだ、などと私たちは本気で思っているのでしょうか?やはり地球は生きている生命体です。本来備わった有機的な恒常性を持ち、疑いようもなくバランスの悪さ(不均衡)をよいバランス(均衡)状態へ正そうとします。地震も津波も自然現象でしかなく、理由なく起きるものではないのです。我々が人間として犯している最大の過ちは、自分自身を何か特別な自然の「枠外」のものとして、地球の特別な例外であるかのようにみなしてきたことです。あってはならない土地や低地の河川デルタ地帯に人口密度の高い都市を建設するのは、自然の力を超えて優位に立ったと思い込むような肥大化した認識に根を張っただけの脆弱なさまを露呈しているのです。我々は原子力発電所も、まず何よりその放射線の恐怖を体験した土地に建ててしまうのです。危険の可能性を含む事態になると我々はそっぽを向いています、それも現時点でのエネルギー供給量が乏しいからと言う理由、将来の汚染なんて知ったものかと言う理由で。エアコンが効いた高層マンションや、立派な門構えの豪華な邸宅でテレビを見たり、無限にケータイアクセスができる自分だけの安全な空間でネットサーフィンできる、そんな泡のような建造物を立てて自分たちは守られて暮らしていけると思い込んできました。我々が地球に対して、動物たちに対して、お互いに対して、行うことが必ずしも自分たちに影響することはないと確信してきたのです。しかし実際には、水を汚すとき自分を汚しているし、大気に有毒薬品を撒き散らすとき自分を汚染しているのです。植物を植えるその一つ一つにまんべんなく農薬や除草剤を使えば私たちみんなに影響します。どんな川も、湖も、海も、ごみ投棄場に使われれば私たちすべてに影響します。遺伝子組み換えを行われた動物も植物もみな、私たちに影響します。愛らしい動物たちも鎖につながれ農場に閉じ込められ血なまぐさい食肉解体場で虐殺されれば、私たちすべてに影響します。すべての野生の渡り鳥も毒殺され空から地に落ちてくると、私たちすべてに影響します。油田開発の掘削も、天然ガスも、原子力発電所も、すべて私たちに影響します。私たちはみな、地球市民です。私たちの運命はすべての命と密接にかかわりあっているのです。

 私たちは今地球規模での環境危機の真っ只中にいます、そしてそれは我々人間たちが動物たちを搾取し、この惑星地球の資源を消費したことが本来原因となっているのです。私たちの多くがこの壊滅的の破壊の原因が自分だと気づいていないし、うすうす気づいている人でも、この問題に実際はどうしたらいいのかわかっていないのです。

 こうした災害が、こんにち世界で起こるのはなぜなのでしょう。シンプルな答えはきっと我々の「特権意識」感情から生まれる欲なのです。欲には経済的な境界線がありません。金持ちの人も貧しい人も、等しく貪欲さに蝕まれるのです。人類の多くがこんにち、世界中で自分のことを貧しいと思い、金持ちになろうとして、欲しいものは何でも買える金を手に入れようとします。人が基本的人権を叫ぶとき、たいていはお金を使う権利について、動物を我が物にして食べる力、資源を利用し使う力について、語るだけです。より多くのお金があればよりよい待遇が得られるのだ、と。お金を持たない、全くない人は他人からひどい扱いをうけるのだ、と。当然ながら、私たちの文化では、動物たちは全くお金を持ってませんから、最悪の扱いを受け、隷属され、家畜として生産性の単位の一つとなるか、または彼ら動物たちがこれに対抗し、あくまで野生に生きることを決めても、即刻絶滅の危機にあうだけなのです。

 現在人口は70億人です。アメリカやほかの金持ちの国は子供を増やすことを計画しており、子供を養っていく十分なお金・手段はあるということでこの選択を正当化しています。では、地球はどうでしょうか?アメリカに産れた子供は人生においてインドやアフリカの子供の20倍もの資源を消費していくのです。世界人口の2%が富の半分を所有しています。世界地図を見ると収入の多い人たちの多くがアメリカ、ヨーロッパ、香港、日本、オーストラリア、サウジアラビアの一部の人たちであることがわかるでしょう。

 そこでは常に間違った正義がありました。もちろん、善悪の判断を超えた真実もあります。「権力こそが正義だ」というのが私たちの行動を後押ししてきました。このスローガンを支持してきたのが儲けてきた共和党員だけだとは考えないでください。お金があるのだからそうする権利があると考える人たちが持っているスローガンなのです。だから、家にいない時も明かりをつけ続け、トイレを流したいときに流し、レストランや食料品店にいって肉や魚丸ごとを買い、どこに行くにも車、バス、電車、飛行機に乗り、動物や環境への道徳観や倫理的悪影響を無視して、世界にあるものなんでもほしがるのです。そして誰もこの権利に疑問を持たないのです。

 現在、日本で起こっていることは、わたしたちがどこにいようとも、同じ様な事が起こる可能性は十分にあります。沿岸地域に住む人々や、原子力発電所があるところは特にそうです。そして、たくさんの家畜農場や動物実験研究所にいるたくさんの動物たち、海の中にいるたくさんの海洋生物たちのどんどん急速に汚染されている悲惨な事態は、今もなお続いています。日本での地震や津波による一番重要な反応は、どのようにしてわたしたちの今ある人生を生きるかを慎重に考え、どのようにして私たちの消費を減らすことができるかを自分自身に問いかけるのです。もっとシンプルに生きてみませんか?本当に必要なものを得る事は間違っていませんが、それに反して、欲望は問題となります。

 私たちに無知や、安楽・暴食・娯楽・買い物をする権利と言った執着をやめ、目を覚ます事は可能でしょうか?それとも、もう手遅れなのでしょうか? 私は思うに手遅れなのかどうかは分かりませんが、だとすれば、他にどんな手があるのでしょうか。自分の行動が元に戻すには行き過ぎたと言う真実を見るのが不愉快だから、ただ諦めて、この上なく幸せに、気づかないでふりをすべきでしょうか? もしあなたが本当にそのような悲観を辞めるとしたら、では何故全力を尽くそうとはせずに、事の悪い状態へ、シャンパンを飲んで、ステーキや伊勢海老を食べ、又はいつものような日常をただ続けているのでしょう?

 しかし、そのようなシナリオに抵抗を感じるのなら、他にも選択肢はあります。ただし、これら他の選択肢はライフスタイルを根本的に変えることだけではなく、自身の意識をもっと拡大することが必要不可欠で、万人向けではないかもしれません。この時代を賢明な楽観主義者として生きるには、私達の生活をシンプルにする手段を見つけることが必要であり、その生活を始めるには、”シンプルに生きること”イコール貧しい生活と判断せず、物を購入する権利が人間の権利とする私達の考えをなくさなければなりません。楽観主義を実現するには、私達ひとりひとりが自身の生活基盤そのものに、いったい何が私達の行動、関係、夢、願望を駆り立てるのかを問いかけねばなりません。私達1人1人は小さい存在だけれども、大きな生態系に多大な影響を与える存在である事実は否定できません。私達は自分自身を全体の一部としてとらえ善処するという思い切った選択ができます。この時代、誰にでもできる一番の勇気ある行動は、恐れずに人々の幸福と安らぎをいたわること、そして人々の「他者」という見方の中に、動物達や全ての環境も含まれるよう意識の拡大を助けること、全存在の生命を高めるような意識を持って生活することです。そのように個が自己認識を広げるような、この地球、そしてあの世までも広がっていくような懸命な努力の生活することは、真に充実した人生へとつながっていきます。私達がエゴを小さくし、この全体の中での自分の役割を意識すれば、自分の中にある神聖な部分がわかるようになります。そうなれば、日本で起こっている事を、何か離れた所で起こっている、自分とは関係のないことだと思うのは不可能になります。今、日本に起こっている事は、遅かれ早かれこの地球全体でこれから起こりうることです。私達全てが、この事態に関わっているのです。

 マイケル・フランティは「みんな同じニコチン依存、みんな同じガソリン依存、みんなが同じテクニカラー映画に依存、みんな同じ緑の自然をその手で危険にさらそうとする」と歌ってます。私たち一人ひとりがここで自問するべき疑問は「依存」から自由になれるか、私たちの大事なライフスタイルをかたち作ってきたすべて、その生活様式が地球の命の未来に恐ろしい危機を引き起こす「依存」のすべてから、自由になれるか、ということです。ショッピングモールがなくても、車がなくても、飛行機がなくても、原子力発電所がなくても、油田掘削しなくても、ファストフードや工場化した農場がなくても、我々は生きられるのだろうか?我々には勇気と想像力で、この惑星や自分自身をその過程で破壊することなく新しく生きる道を見つけられるのか?そこまで誠実に自分をさらけ出していられるのだろうか?そんなに無防備に生きられるのだろうか?いま我々が生きている時代は預言された黙示録なのかもしれない。黙示録とは「覆いを取り去る」ことです。黙示録はきっと私たちの持つ潜在能力、つまり私たちを自然からかけ離れた特別なものであるように見せている、すべての技巧や虚飾や見せかけの下に隠れた潜在能力を明らかにする(覆いを取り去る)手立てとして、今の我々にまさに必要なものなのかもしれません。私たちが近年のいわゆる大災害をうまく利用して、これまでの生活に目を覚まし、検証する手段にできれば、そのことで問題を整理しはじめ、本質的なものだけを知り、その上で勇気を持って自己存在を証明する条件だと思ってきたすべての不必要な欲求を手放すのです。本当の自分に対する認識、知識にそんな力強い覚醒をする覚悟が私たちにあるのだろうか?文化という衣をまとうことなく無防備に、すべての物への依存することなく自分自身を認めることがれわれにできるのだろうか?おそらく貪欲さを乗り越えようとする意欲があれば、究極の運命を見ることができるのかもしれない。パタンジャリの言葉どうり、”自己利欲をなくしたとき、必要なもの以上を奪うのをやめるとき、ひとは生まれた理由と言う知識を得るのだろう。”(ヨガスートラ2.39)

 我々ひとりひとりの魂の内に灯る永遠の真実は喜び、幸福、愛なのです。それが私たちの本質的な姿、すべての人が求めるもの、そして我々の運命なのです。これまで我々はずっと、その外側(表層的な)面だけを捜し求めてきたのかもしれないけれど、「物」の中にそれを見出すことはできないのです。いつもその内側を深く見つめたいと思う人には誰にでも手に入れられるもの、でもそれを可能にするためには服を脱ぎ捨て、これまで覆ってきたもの、長い間私たちの本来の心をあいまいなものにしてきたすべてを手放さなければならないのです。黙示録に厳然と従い甘受しなければならないのです。

 神の祝福と祈りを、日本のすべての人々に、すべての動物たちにも、そして世界中のすべての命のために、その苦しみが慰められますように。

シャロン・ギャノン
翻訳 日本ジヴァムクティ・ヨーガ教師一同

http://www.jivamuktiteachers.jp/pg90.html

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